明治2年8月に、現在の呼び名「北海道」となったが、その名前をつけたのは、北海道と
大変深い関わりのある三重県松坂市出身の松浦武四郎という人。
 北海道の歴史・・・そして「対雁」の歴史を語る時、松浦武四郎を避けて通ることはできな
いと言って良いだろう。
 彼のことを記載した本は数多く出版されているが、児童向けとして「白い大地」―北海道の
名づけ親・松浦武四郎 吉田 武三著が、出版されている。

 彼は、16歳の頃から全国各地を旅したが、28歳から蝦夷地に6回も足を運び探検して
いる。
 最初の探検では知床岬まで、2度目には先住民族であるアイヌの人たちと交流を深め、
アイヌ語を習った。3度目には蝦夷地を領土としていた松前藩が行っていたアイヌ民族への
残酷な扱いを知り、その後告発していくこととなった。
 そのようなことから、命を狙われていたと言われている。飛行機も電車も自動車もない時
代に、見知らぬ地を探検し続けるだけで命がけとなるはず。それにもまして、アイヌ民族に
対する不正を命がけで記録し、告発し続けた情熱はいったいどこからうまれたのだろうか。
 4〜6度目(4年の間に3回)は、探検家としてだけではなく、箱館奉行所(函館ぶぎょうしょ)
の役人として蝦夷地に渡ってきた。この3回には、私たちの地域「対雁」に立ち寄っているの
である。

V.松浦武四郎の記述からみる         「北加伊道」「ツイシカリ」

「対雁」を通ったのは、この3回だが、白い大地の図に「ツイシカリ」の文字
は見あたらない。

新北海道誌 第七巻−津軽一統志 巻第十より

 武四郎は「天塩日誌」の中で「北海道」命名についてふれている。
 音威子府村には「北海道命名の地」の碑が立てられているが、そこのエカシ(長老)アエトモに「カイナー」の意味をたずねたところ、「カイ」が「この国に生まれた者」、「ナー」が敬語と聞き、「北加伊道」という名前を思い立ったという。

「白い大地」より 1〜3回目の探検

■時代背景

  津石狩番屋跡 (写真右)
 280年ほど前, 旧豊平川河口部左岸に石狩13場所の一つとし
て商場(後の番屋)が開かれた。津石狩は、鮭漁と内陸水路交
通の要として発展していった。
 1868年には、立花由松が江別最初の和人として定住した。

 さて、時代が江戸から明治に変わった頃、北海道の地名提案が行われた。この時彼は開拓使の開拓判官 という役職についていた。
 地名には、アイヌ語を中心に各地を命名していった。現在の支庁名(振興局)、郡、市町村名の8割ほどがアイヌ語を語源としていると言われる。 行政区画も彼の原案がほぼ現代まで続いている。

クイズ3

安政3〜5年 「ツイシカリ」を訪れた時の舟行詳細図

由良勇氏編集

「蝦夷地六航と蝦夷國號撰定」より

全体像が知りたい場合は

「北海道」という名前をつけたのは
だれでしょうか。

1.徳川家康
2.坂本龍馬
3.最上徳内
4.松浦武四郎
5.クラーク

■クイズ2の答え  ※下の縦書きの文章の中にあります。
 前の頁 T.地形からみる「対雁」で出題したクイズの
 答えです。津軽一統志の「石狩地形の事」の中で、対雁
 が記載されているのはどこか?!という問題でした。
 同じ部分の訳本を紹介します。赤線の部分が答えです。
 280年前には、「対雁」を「津石狩」と表記していたことが
 分かります。↓ このころは北海道ではなく「蝦夷地(えぞ
 ち)」と呼ばれていました。

※資料提供 北海道開拓記念館             笹木義友氏

北海道の名付け親 松浦武史郎

 彼が「対雁」を訪れたのは、安政3年・4年・5年のことであった。
 [元号と西暦の早見表参照]
 安政3年は西暦1856年であるから、今から150年以上も前
のことである。
 その時の行程を図にしたものがあるので見てみよう。

 *資料提供 -北海道開拓記念館 笹木義友 氏より

北加伊道

由良勇氏編集 「蝦夷地六航と蝦夷國號撰定」に
     6回の探検の詳細地図が掲載されている
 

「白い大地」より 4〜5回目 調査

※答えは、下の文章にあります。