学校の概要>沿革史

 

江別太 開校までの歴史  3

↑ 昭和22 年に撮影された航空写真。拡大した写真では、後に学校となる青年会館が見える。国土地理院航空写真利用サービスを利用。

江別太小学校の前史

 62年間。明治19年の北越殖民社による越後村入植から昭和23 年12 月18 日の本校開校までの長い年月です。しかし、本道開拓の一つの範を示したと高く評価される江別太の住民が、子どもの教育に強い意欲を持っていたことは明らかで、地域教育の空白期間であったわけではありません。

■ 公立江別町尋常諸学校と 越後村冬期特別教授所

 開拓が進み、地域組織が生まれ、住民は、地域課題解決に取り組みました。江別太の場合は、夕張川切り替えによる治水対策と、幌向村から生活の拠点であった江別町への編入が重要な地域課題でした。
 江別太は石狩川に沿う北部、江別川に沿う西部、ペンケヨシュベ川に沿う南部に集落が分かれ、中心部は越後沼を中心とする湿地の未開空白地帯という地形的な事情から、地区内に中心部が存在しない特殊な地域構成でした。また、隣接する駅前の江別市街に日常生活全般を依存していたため、地区内部に学校を建設する動きはまとまりませんでした。
学校建設運動は、明治25 年に江別駅前の江別屯田練兵場の一部が民間に開放された際、江別地区住民と江別太地区住民の共同で行われ、両者の寄付により、校地を買収、校舎を建設し、明治25 年2 月13 日、江別駅前に公立江別町尋常小学校が開校しました。
しかし、地吹雪にさらされる冬期間の遠距離通学は、子どもたちにとって大きな負担でした。吹きだまりによる不幸な死亡事故が発生したため、明治39 年1 月16 日に、小学校4 年生以下を対象に、冬期間(12 月1 日から3 月24 日まで)越後村特別教授場が開設されました。
この特別教授場は、財政上の理由などから大正14 年に公式には廃止されますが、地域の要請により、本校校長権限、経費地元負担で、無認可のまま昭和22 年まで継続されました。
この間、子どもたちの通学の負担を考え、通年通学できる学校を建設しようという論議が何度か起きましたが、建設位置で各地区の意見が一致せず、実現に至りませんでした。
学校開設に意欲を持ち、区長、町議として調整に当たった上出善松氏の尽力で、昭和14 年から18 年にかけて、議会で開校準備のための予算が建設位置未定のまま計上されました。しかし、建設位置の最終的な調整がつかないまま、戦争の激化によって、学校開設は実現されずに、終戦を迎えることになりました。

 

続く 江別太小学校の開校へ