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石狩川外輪船と鉄道とレンガで発展した街

                                    絵:村 井 宏 子

江別太小にも上川丸と弁慶号が登場。

 

江別太小校区入り口のガラス張りの大きな建物

 

 札幌方面から、国道12号線を通って江別太小学校に向かいます。
 江別市街を抜けると、左手に王子製紙江別工場が見えてきます。石狩川を左手に見ながら千歳川の合流点を橋で渡り、本校の校区に入ります。
 すると、右手にガラス張りの大きな建物が見えてきます。この建物を過ぎてから、一つ目の信号を右折すると、江別太小学校が近づいてきます。時間に余裕があるなら、ぜひ、この建物に立ち寄ってください。
 江別河川防災ステーションというのが、この建物の名前です。中に入りましょう。上を見上げると、平たい船底が見えてきます。どんな船かを知るために左手にある階段を上ってください。
 船の横に大きな輪がついています。外国の映画でしか見たことがないような「外輪船」だったのです。船の名前は「上川丸」。クラシックな蒸気船の実物大模型です。説明を見てみると、上川丸は明治22(1889)年に作られ、同年8月から廃船になる昭和10(1935)年1月まで、45年あまりの期間石狩川で活躍していたことがわかります。石炭を燃やした蒸気で両側面にある大きな車輪を動かして進む外輪船です。2階からは、客室や食堂、甲板上の操舵室などを見ることができます。

 外輪船・上川丸がどのような役割を担っていたか詳しい説明を、江別河川防災ステーションのパンフレットから紹介させていただきます。

 

上川丸が活躍した時代

 

    江別港を拠点に石狩川を航行し、内陸部の発展に大活躍した上川丸

    story of kawakami maru

 

舟運と鉄道が交わる「江別」

 北海道へ移り住んだ最初の頃の開拓民たちは、「丸木舟」を使い川を移動して、生活物資を運搬していました。
 北海道で一番大きな川、石狩川は、そんな陸地での交通手段がなかった昔、唯一の交通路として利用されていまLた。
 明治14年に北海道で最初の集治監(囚人を収容する施設)が樺戸(現在の月形町)にできると、囚人や生活物資を運ぶため、石狩川で船の行き来が盛んになります。まずは汽船「第一樺戸丸」「第二樺戸丸」が石狩川~樺戸(月形)間に運行し、明治17年には新しく造られた監獄汽船「神威丸J「安心丸Jが毎日のように石狩川を航行していました。
 一方、陸地では鉄道の整備も進められ、明治15年には札幌~幌内間が開通し、江別駅もできました。
 江別は、石狩川の航路と鉄道が交わる場所で、江別港(現在の新江別橋のあたり)から、江別駅までの通りは、船で運ばれてきた農産物や木材の集まる場所としてにぎわっていました。
 雨竜地域など石狩川の上流で収穫された農産物や木材は、船を使って江別まで運ばれ、江別で鉄道に積み替えられて、札幌や小樽まで運ばれていました。逆に、鉄道を使って小樽や札幌から運ばれた生活物資は、江別で船に積み替えられ、石狩川の上流地域へ運ばれました。江別港付近では、農産物をたくさん積んだ雑穀船が十数隻も走り回り、江別川(現在の千歳川)上流の長沼や千歳方面まで往復していました。秋になると、1隻の外輪船が4-5隻もの雑穀船をひいて、江別川沿いの倉庫に運び込んでいました。

 

上川丸の機能

 石狩川で大活躍していた上川丸は、外輪式の鉄製の燕気船で、石炭を燃やすことで発生する蒸気を利用して、船の中央部の両側にある車輪を動かして進みました。上川丸の構造は、船の前部に船員たちの船室があり、そのすぐ後ろには食堂・休憩室がありました。船の中央部は機関室で、後者は荷物置き場と客室になっていました。
 船の上にある甲板には、操舵室と船長室がありました。船の底は平らになっていて、水深1m前後の所でも航行できるようになっていました。船の航行速度は、上りは早足、下りは駆足ぐらいの速さだったそうです。 (江別河川防災ステーションのパンフレットから引用)

 

 

■ 製造年/明治22(1889)
■ 購入・進水/明治22(1889)年8月
■ 廃船/昭和10(1935)年1月
■ 定停港/石狩国江別川
■ 製造地名/東京石川島
■ 製造者/株式会社石川島造船所
■ 船の長さ/25m
■ 船の幅/6.2m
■ 深さ/1.1m
■ 船の総トン数/601
■ 船の馬力/24.2(以後の手直しで67馬力を得る)
■ 船の定員/60名(推定値)
■ 速力/約7.8ノット(推定値)
■ 船員数/船長以下約B名(推定値)

 

上川丸と交わっていた鉄道は  

 

  北海道で最初の鉄道が手宮~札幌の間に開通したのは明治13年(1880)でした。国内では新橋~横浜、大阪~神戸に続く3番目の鉄道でした。
 北海道の鉄道は、空知地方の石炭を港まで運ぶことを目的に計画され、いくつかの候補地から、小樽の手宮と三笠の幌内炭鉱を結ぶ路線が建設されることになりました。最初に手宮~札幌が開通し、その後、豊平川の鉄橋などの難工事を克服して、明治15年(1882)11月に、手宮~幌内の全区間が開通しました。江別駅が作られたのも、この年です。
 さて、開拓使によって幌内鉄道が開通したとき、導入されたのは、アメリカ・ポーター社の機関車でした。特徴はダイヤモンド型といわれる巨大な火の粉止めのついた煙突と動物との接触に備えたカウキャッチャー、そして、ボイラーの上につけられた鐘でした。最初に輸入された2両の機関車は「義経号」「弁慶号」と名付けられました。その後も同型の計10両の機関車が輸入され、国産の機関車に主役の座を明け渡すまで北海道の開拓に活躍しました。そのうちの「しずか号」は、今も小樽市総合博物館に保存されています。
 7100型という形式名で呼ばれる機関車が活躍した時期は、明治10年代から大正初期までです。上川丸が就航していた時期が明治22年(1889)から昭和10年(1935)なので、上川丸が最も活躍していた時期に関係していた機関車は、「義経号」「弁慶号」「しずか号」など、今も親しまれているアメリカンスタイルの7100型だったのです。写真は、開業間もない明治16年頃、野幌の陸橋を通過する7100型機関車です。

 

石狩川外輪船と弁慶号で発展した街

 

 「江別太」の「太」は、アイヌ語の「put(プトゥ)」つまり「河口」に由来します。「○○太」という地名なら、その名前の河川の河口または合流口という意味になります。
 現在の「千歳川」はかつて「江別川」と呼ばれていました。「江別太」という地名は「江別川が石狩川に合流する地点」という意味です。現在の防災ステーションがある場所は、かつての江別港右岸に当たります。
 外輪船と鉄道で発展した街が私たちの江別太なのです。

 


 これまでの開校記念誌には、江別港の由来が紹介されていません。東光町が江別小校区から江別太小校区に通学区域変更されたのが、平成17年であり、開校50周年の平成11年には、江別港に関係する地域が本校校区でなかったためです。